言論と消費

 言論をもっと気軽に吟味し、拡張し、場合によっては唾棄できる空間はないか、と常々考えている。あてもなく調べてみると、お眼鏡に叶うコンテンツはいくつか存在する。DOTPLACEなんかスマートでかっこいい。マス・メディアとのクロスオーバーがあり、閉塞感を感じない。取り扱われる対象はもちろん消費される「モノ」だけれども、言論と消費を強引に結び付けないところに強い好感を感じる。

 言論は、これまで人々は「意見」をどのように正当化させるか、ということに腐心する行為だと再確認する。文化祭での論文発表を終えたばかりなので、このことに対してかなりセンシティブになっている。僕がわざわざ言わなくても、こういったことを体得されている人は多いだろうと考える。authorityの獲得、ロジックの深化に勤しむのが常だったのに対し、多層化するネット・メディアはコンテンツ化→消費のプロセスにおいて、一種の権力性を獲得しているのだと思う。

 文化祭で、素人の学生がたこ焼きを作って500円で売る。「文化祭だから」と、友人のよしみで何人かが買う。刺のあるなぞらえ方だが、こう考えるとそういった言論メディアはサブカルチャーの域を超えないことが自明になってくる。最初は「きれいなデザインだな」と読むけれど、一度ブラウザを閉じるとサイト名も忘れてしまう。でもそのサイトがバズって、再び僕の目に止まることがあると、そういった線引きは、きっと自分の問題なんだろうな、と戒めたくなる。

 消費ではなくて、言論そのものに夢中になる人が若い世代にも一定数いる、ということについて考える。中学生の頃、零細書評ブログを書いていたが、長続きしなかった。とあるコンテンツを俎上に上げて論じる、ということにずっと違和感があったのだと思う。


DOTPLACE

 

マルチチュード」を読んでいたら、ヘーゲル国防長官辞任のニュース。虫の知らせか。

 

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)