選択

ゴーギャンの作品「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」は、形而上学最大の問題のひとつ、「存在」について我々に問う。子供・成人・死に怯える老婆、非西洋的な偶像を順に並べ、神学・時間・歴史そのどれもが説明できなった「在る」という根源的な問いを、ゴーギャンタヒチでの失望をもとに表現した…

のだそうだ。私のような日曜哲学者は、ドッヒャーッ、とおどけながら、「マァ、餅は餅屋ですしねェ」、とかなんとか、逃げるほかない。私の寄せて返すさざ波のような思慮は、哲学の堤防を越えることはない。ありふれた悩みが、藻のように浜に漂着するだけだ。

悩みといえばこんな歌がある。「〽ソ・ソ・ソクラテスか プラトンか 二・二・ニーチェか サルトルか」。1975年、ウイスキー「サントリーゴールド」のCMソングだ。野坂昭如が仰々しく歌い上げるこの詞は、以下のように結ばれる。「〽みんな悩んで 大きくなった」。悪魔の一言、と私は思う。当時の日曜哲学者たちは、900ミリリットル1500円が謳う、こんな懐の広さにやられ、まんまとグラスを空けたに違いない。

 先の三人の巨星の説明は省くとして、サルトル君は一体何に悩んだのか?ものの本によると、ズバリ見た目に、劣等感を抱いていたそうだ。斜視のサルトル少年は、女性にフられた腹いせに、「人間は自由の刑に処せられている」などと吹聴するに至ってしまった。神も正月もブサイクには無い。ゴーギャンと異なり、サルトル(と私)はルックスという宿命と対峙し続けるのだ。

 「自由の刑」とは、「選択は自己を規定しつつも、その意識は自由であること」を余儀なくされることである。ここから「実存」の考え方が生まれる。紙面が足りないので、「実存」が気になった人は、図書館地下2階に住むといい。「人は選択で生きている」という、悩みの潮騒を感じた日曜哲学者たちよ、サントリーゴールドを一杯どうだろう。