ジャーナリズムとアカデミズム

    大澤聡「批評メディア論」を読んでいる。この中に、大宅壮一の言葉が引かれている。
「アカデミズムはひどく嫌はれているヂャーナリズムにとって、非常に大切なお得意になるわけだ。そのコツをうまく掴んで成功したのが岩波である。」
1930年代の日本の言論環境を示唆する言葉だ。当時のエリートたちは、アカデミズムに底打ちと倦怠を覚え、ジャーナリズムに身を置く人間が増えたのだという。そしてジャーナリズムは「官学アカデミズム」をダシにして、市民の注目を集める商売をするようになった。
   この話に興味を持ったのは、今のアカデミズム/ジャーナリズムに、似たような構造が存在しているような気がしてならないからだ。近年、宮台真司東浩紀、若手では五十嵐泰正や開沼博といった社会学者が、多くメディアに露出する機会を持っている。イベントやラジオ、ツイッターでコメントを残し、様々な形で反響を呼んでいる。
    先の話になぞらえると、彼らがメディアで行っていることは、「アカデミズム」ではなく、「ジャーナリズム」として商売をしているように思える。善悪の問題ではない。彼らにとって、公然と社会を語ることができるというのは、自らの本業と、社会の中で考え、発言し商売をする自己とが、可分されうるものなのだという明確な認識があるのではないか。この部分は後日追究したい。
   「ジャーナリズムをアカデミズムの視座から捉える」ことを3年間学び、記者からも教授からも様々な指摘を頂き、納得できる部分が多い一方で、まだ理解していないことも多い、そう痛感する時期にある。その中で身につけることができたもの、それは、ジャーナリズムとアカデミズムが、どのように結節し、どこで袂を分かつのか、その感覚を磨くことができた点にある。上に孫引きした文章も、その感覚の新たな礎の一つである。今後自分と同じような問いにぶつかる学生は、1人は居るだろう、まずは歴史を紐解いてみることから始めるべきだ。