水村美苗日本語が亡びるとき』をバナナの皮のように横たえ、

荻野目洋子を耳に挿れながら

 

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自炊が増えすぎて、自分の作る料理に飽きてしまった、という友人の声をよく耳にする。

心の底から同感する。また、これはある人の一言ともリンクする。

とある飲食店で食事をしていた時、こちらの要望に合わせて簡単なパスタを作ってもらったことがあった。卵とチーズと油くらい、シンプルだが、とても美味しかった。

凝ったものよりも、その場にある食材で作るーー音楽でも文章でも、とにかくあらゆる「作ること」において醍醐味とも言える所業で、必要以上に感動した。まるで子供の頃、遊園地で見たバルーンアートのお兄さんのようだった。

これだけ色々作れたら人生も楽しいだろうと少しうらやましかったが、シェフは「自分で作った料理はあんまり食べない」と言う。

その時は合点がいかなかったが、今ならわかる。逆にいえば、うまいともまずいとも言われないのに、数十年にわたって家族にご飯を作り続けてきた母(父)の思いも、少しわかった。

作ったものは、いくら気に入っていても、自分で消化するものではない。リビングに自分の画を掛けるバスキアや、「クリープ」を自宅で聴きいるトム・ヨークがいないように。

やっぱり、作品は遍くして他者を想定して作られているものだし(それを逸脱する目的で作られているものを除き)、想定を回収できる、またはそれを超えなければ完成しないところもある。

おまけに、自分に都合のいいものは、何度も見ていると飽きてくる。例えば、ちょっとしたソテーに、とろけるチーズやキムチや、多めの粒コショウや、贅沢にバターなど、いくらでも自宅だと調整できる。それがよくない。紅生姜は吉野家でしか食べられないと制限されているからあれだけ牛丼に積載するわけで、ひとりチーズの上にバターを載せてもそれはムダでしかない。自分の好みは、手軽に手に入らないからいい。

誰かと食べられない食事、自分オリエンテッドな調理、これが自炊をマンネリ化する原因であり(もちろん毎日作るのはしんどいが)、あらゆる(創作)活動においてこれは共通することだ。

 

大好きなインターネットを観るのもうんざりしているので、あまり好きではない本を手に取っている。本は大体タイトルと中身が解離している。だから、読めば裏切られる。stay home自体は温かいが、そのなかで喜びを見出すにはいかんせんマゾ要素を求められる。

 

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引き続き、バナナと荻野目。