「王国」と「ひっぴぃ」

 二つの写真展を梯子してきた。東京国立現代美術館で開催されている『奈良原一高 王国』と、渋谷のギャラリー野上眞宏によるはっぴぃえんどの写真展。前者は三田の図書館で、校舎はニュースサイトで告知を見て、今日まとめて赴いた。

 奈良原の作品は以前『スピリチュアル・ワールド』展で一目ぼれし、追いかけていた経緯がある。メキシコ、ニューヨークと異国を撮影してきた彼が、日本の炭坑島、トラピスト修道院、そして女性刑務所を収めた数十点が展示されている。「王国」とあるように、ふだん人目に触れない世界があるという事実の再認識。トラピスト修道会では、許可なき会話が厳禁であり、そのため独自の手話のようなハンドサインが存在するのだという。彼らは僕たちのような社会一般に暮らす人々を、唇の前に人差し指を立てて示すのだそうだ。僕たちが「しーっ」と沈黙を促すあのサインだ。これらの写真には、「逸脱」することへの欲望に、強く再考を促すようなパワーがある。

奈良原の「ジャパネスク」という写真集を探しているのだが、絶版。高価。再販を願っている。

 

 はっぴぃえんどは言わずもがなである。ナイアガラ関連のイベントが頻発し、その一環とも受け取られてしかるべきだろう。客層は、今の僕のような人と、未来の僕のような人と、外人だった。小さなギャラリーで、15分もすれば観終わってしまう。写真撮影は自由で、心に残った作品と、特に大瀧のアーティスト写真とツーショットを撮ってもらっている人が多かった。

野上に関しては不勉強で、何の知識もなく赴いた。だが「Hosono House」におけるあの細野晴臣のピンボケたようなジャケットや、「風街図鑑」のブックレットに収録されていた松本隆が喫茶店でくわえ煙草をしている写真があり、いずれもとても心にあったものだったので、現物に感動した。

大瀧のソロ作品「幸せな結末」の7inchを探しているのだが、絶版。高価。こちらも再発を願っている。

言論と消費

 言論をもっと気軽に吟味し、拡張し、場合によっては唾棄できる空間はないか、と常々考えている。あてもなく調べてみると、お眼鏡に叶うコンテンツはいくつか存在する。DOTPLACEなんかスマートでかっこいい。マス・メディアとのクロスオーバーがあり、閉塞感を感じない。取り扱われる対象はもちろん消費される「モノ」だけれども、言論と消費を強引に結び付けないところに強い好感を感じる。

 言論は、これまで人々は「意見」をどのように正当化させるか、ということに腐心する行為だと再確認する。文化祭での論文発表を終えたばかりなので、このことに対してかなりセンシティブになっている。僕がわざわざ言わなくても、こういったことを体得されている人は多いだろうと考える。authorityの獲得、ロジックの深化に勤しむのが常だったのに対し、多層化するネット・メディアはコンテンツ化→消費のプロセスにおいて、一種の権力性を獲得しているのだと思う。

 文化祭で、素人の学生がたこ焼きを作って500円で売る。「文化祭だから」と、友人のよしみで何人かが買う。刺のあるなぞらえ方だが、こう考えるとそういった言論メディアはサブカルチャーの域を超えないことが自明になってくる。最初は「きれいなデザインだな」と読むけれど、一度ブラウザを閉じるとサイト名も忘れてしまう。でもそのサイトがバズって、再び僕の目に止まることがあると、そういった線引きは、きっと自分の問題なんだろうな、と戒めたくなる。

 消費ではなくて、言論そのものに夢中になる人が若い世代にも一定数いる、ということについて考える。中学生の頃、零細書評ブログを書いていたが、長続きしなかった。とあるコンテンツを俎上に上げて論じる、ということにずっと違和感があったのだと思う。


DOTPLACE

 

マルチチュード」を読んでいたら、ヘーゲル国防長官辞任のニュース。虫の知らせか。

 

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)