本①

一般的な話をしたい。「極めて一般的に言えばね」、僕は妙な日本語を使い続けている。なぜなら、シネフィルも仏文もミソジニーの話も、総じてジャーナリスティックじゃないからだ。新聞に載る話、全国に刷られて、流通していいような話…それが、「話」だ。

 

「精神的に独立した話を」

「それは、対自的な意味でかい?」

「いや、『親元を離れて一人暮らしをする』とか、『冷めきった関係の妻と決別する』とか、そういう一般的な意味での独立でね、、、」

スノッブの範疇にすら踏み込んでいない。お互いの話を全く理解していない会話、簡単に言うとアホだ。

 

僕たちにはつながりが必要なのだ。毎日17時に聴こえる下校のチャイムのように、近所の人なら誰もがわかる、せめて自分の身の周りと自分が地続きであることがはっきりとわかる、記号や共有する記憶が欲しい。

 

前回映画の記事を書いたのは、そういう理由からだった。と言っても全然説明になっていないと思うので、もう一つ補助線が必要だ。就職活動をする。面接に臨む。

「趣味は読書と映画・音楽鑑賞です」

しょうがないから言う。

「で、どんな?」

「いろいろです」

となると、落ちる。次の展開が、望みの薄い博打になってくるからだ。もし文化に明るい企業だったとしよう。自分の崇拝するアンディ・パートリッジや人生を注いだATG映画鑑賞の存在に気づいてくれるかもしれない。しかし、自分よりも手練の文化人が難癖をつけてくるかもしれないし、琴線に触れなければ「あ、そう」で終わるかもしれない。明るくない企業であれば無論だ。

だから、わかり易く自分の好きなモノの特徴を、多少取捨はあっても、パッケージ化し、記号化する必要がある。それを論理的に伝えれば、「○○芸人」のように、万人に納得される自己表現ができる。

 

本当はこの流れで、自分の好きな本の特徴を考えていきたかったのだけれど、説明が長くなってしまったので、また後日。

 

映画

映画のハードルは高い。何が、という話になるけど、それはいろいろ高い。本数、評論、知識、「好きな映画は?」質問、デート手段として、映画鑑賞の値段、などなど。先日、Filmarksというアプリを始めた。観た映画や、観たい映画を保存することができる。子供の頃に観た「ミュウツーの逆襲」まで、つぶさに登録していったが、200本に満たなかった。友人の2分の1以下だ。

 

私は自称映画嫌いだ。それはもっぱら、身体的体験を伴わないことに起因する。映画館(家のPCでもそうだが)では、椅子に座っていなければ観られない。いみじくも「ルドヴィコ療法」ではないが、スクリーンと私の間に厳しい主従関係が貫かれているような気がしてしまう。イヤ結構、マジに辛くないですかコレ。それでもfilmarksによると、映画に200×2時間は消費していることがわかる。「好きな映画もある」くらいに方針転換をしないと、自分を粉飾していることになってしまう。

 

「好きな映画」の条件を、filmarksとにらめっこしながら考えてみた。

①「汗」

原子力戦争」の原田芳雄、「蘇える金狼」の松田優作など。バリバリのカッターシャツが、汗でベトベトと肉にへばり付いているのが、いい。

②誰のためでもない

ポンヌフの恋人」「マイ・プライベート・アイダホ」など。猥雑さ・共感を全く求めない感じ。世界観だけが転がっている感じ。放課後の校庭に転がっているボールを、力いっぱいあさっての方向に、ぽーんと蹴り出す、誰も見ていないのに。そんな感じの映画。

③「ヒューマンSF」

要はハルマゲドンである。「宇宙の彼方にぶっ飛ばされて、危険な仕事を任され、一生家族の元に帰れない」的な話を観るとオイオイ泣いてしまう。「インターステラー」は、劇場で私より泣いている人は居なかった、と思う。

 

と無理やり挙げた三つの条件。みんなはどういう基準で、映画を観るんだろう?

 

 

選択

ゴーギャンの作品「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」は、形而上学最大の問題のひとつ、「存在」について我々に問う。子供・成人・死に怯える老婆、非西洋的な偶像を順に並べ、神学・時間・歴史そのどれもが説明できなった「在る」という根源的な問いを、ゴーギャンタヒチでの失望をもとに表現した…

のだそうだ。私のような日曜哲学者は、ドッヒャーッ、とおどけながら、「マァ、餅は餅屋ですしねェ」、とかなんとか、逃げるほかない。私の寄せて返すさざ波のような思慮は、哲学の堤防を越えることはない。ありふれた悩みが、藻のように浜に漂着するだけだ。

悩みといえばこんな歌がある。「〽ソ・ソ・ソクラテスか プラトンか 二・二・ニーチェか サルトルか」。1975年、ウイスキー「サントリーゴールド」のCMソングだ。野坂昭如が仰々しく歌い上げるこの詞は、以下のように結ばれる。「〽みんな悩んで 大きくなった」。悪魔の一言、と私は思う。当時の日曜哲学者たちは、900ミリリットル1500円が謳う、こんな懐の広さにやられ、まんまとグラスを空けたに違いない。

 先の三人の巨星の説明は省くとして、サルトル君は一体何に悩んだのか?ものの本によると、ズバリ見た目に、劣等感を抱いていたそうだ。斜視のサルトル少年は、女性にフられた腹いせに、「人間は自由の刑に処せられている」などと吹聴するに至ってしまった。神も正月もブサイクには無い。ゴーギャンと異なり、サルトル(と私)はルックスという宿命と対峙し続けるのだ。

 「自由の刑」とは、「選択は自己を規定しつつも、その意識は自由であること」を余儀なくされることである。ここから「実存」の考え方が生まれる。紙面が足りないので、「実存」が気になった人は、図書館地下2階に住むといい。「人は選択で生きている」という、悩みの潮騒を感じた日曜哲学者たちよ、サントリーゴールドを一杯どうだろう。

「王国」と「ひっぴぃ」

 二つの写真展を梯子してきた。東京国立現代美術館で開催されている『奈良原一高 王国』と、渋谷のギャラリー野上眞宏によるはっぴぃえんどの写真展。前者は三田の図書館で、校舎はニュースサイトで告知を見て、今日まとめて赴いた。

 奈良原の作品は以前『スピリチュアル・ワールド』展で一目ぼれし、追いかけていた経緯がある。メキシコ、ニューヨークと異国を撮影してきた彼が、日本の炭坑島、トラピスト修道院、そして女性刑務所を収めた数十点が展示されている。「王国」とあるように、ふだん人目に触れない世界があるという事実の再認識。トラピスト修道会では、許可なき会話が厳禁であり、そのため独自の手話のようなハンドサインが存在するのだという。彼らは僕たちのような社会一般に暮らす人々を、唇の前に人差し指を立てて示すのだそうだ。僕たちが「しーっ」と沈黙を促すあのサインだ。これらの写真には、「逸脱」することへの欲望に、強く再考を促すようなパワーがある。

奈良原の「ジャパネスク」という写真集を探しているのだが、絶版。高価。再販を願っている。

 

 はっぴぃえんどは言わずもがなである。ナイアガラ関連のイベントが頻発し、その一環とも受け取られてしかるべきだろう。客層は、今の僕のような人と、未来の僕のような人と、外人だった。小さなギャラリーで、15分もすれば観終わってしまう。写真撮影は自由で、心に残った作品と、特に大瀧のアーティスト写真とツーショットを撮ってもらっている人が多かった。

野上に関しては不勉強で、何の知識もなく赴いた。だが「Hosono House」におけるあの細野晴臣のピンボケたようなジャケットや、「風街図鑑」のブックレットに収録されていた松本隆が喫茶店でくわえ煙草をしている写真があり、いずれもとても心にあったものだったので、現物に感動した。

大瀧のソロ作品「幸せな結末」の7inchを探しているのだが、絶版。高価。こちらも再発を願っている。

言論と消費

 言論をもっと気軽に吟味し、拡張し、場合によっては唾棄できる空間はないか、と常々考えている。あてもなく調べてみると、お眼鏡に叶うコンテンツはいくつか存在する。DOTPLACEなんかスマートでかっこいい。マス・メディアとのクロスオーバーがあり、閉塞感を感じない。取り扱われる対象はもちろん消費される「モノ」だけれども、言論と消費を強引に結び付けないところに強い好感を感じる。

 言論は、これまで人々は「意見」をどのように正当化させるか、ということに腐心する行為だと再確認する。文化祭での論文発表を終えたばかりなので、このことに対してかなりセンシティブになっている。僕がわざわざ言わなくても、こういったことを体得されている人は多いだろうと考える。authorityの獲得、ロジックの深化に勤しむのが常だったのに対し、多層化するネット・メディアはコンテンツ化→消費のプロセスにおいて、一種の権力性を獲得しているのだと思う。

 文化祭で、素人の学生がたこ焼きを作って500円で売る。「文化祭だから」と、友人のよしみで何人かが買う。刺のあるなぞらえ方だが、こう考えるとそういった言論メディアはサブカルチャーの域を超えないことが自明になってくる。最初は「きれいなデザインだな」と読むけれど、一度ブラウザを閉じるとサイト名も忘れてしまう。でもそのサイトがバズって、再び僕の目に止まることがあると、そういった線引きは、きっと自分の問題なんだろうな、と戒めたくなる。

 消費ではなくて、言論そのものに夢中になる人が若い世代にも一定数いる、ということについて考える。中学生の頃、零細書評ブログを書いていたが、長続きしなかった。とあるコンテンツを俎上に上げて論じる、ということにずっと違和感があったのだと思う。


DOTPLACE

 

マルチチュード」を読んでいたら、ヘーゲル国防長官辞任のニュース。虫の知らせか。

 

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

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