「青い青い、空は白く 白い白い、空は黒く 黒い黒い、空は青い」。娘の絵日記を盗み見てしまった。夏休みの宿題らしい。海の日に帰省したとき、近くの海岸に連れて行った。妻が逝ってから、初めての里帰りだった。天気は芳しくなく、海水浴はおろか浜遊びも怪しかった。しくじった、と私は思った。だが、娘は、砂と水平線と空のモノクロを、海峡の灯火に惹かれ、吸い込まれるかのように、見つめていた。その日の1ページだった。

彼女の眼差しは、無邪気な八重歯のように巧妙に隠され、かつ鋭く研かれているのだ。娘のことを、いつまでも子供と思っては居られなかった。

 

 娘と、植木鉢に朝顔の種を植えた。その種は、もとは、私が子供のころ、実家の庭に植え、育てていたものだった。母は律儀に収穫し、来年植えるものとフィルムケースに取っておいていた。成長とともに私は朝顔に興味を失い、ある夏からそれは植えられなくなった。朝顔の種子は、密閉しておけば、20年以上保管が効く。そんな薀蓄と共に、お父さんが小さい頃、育ててたんだよ、と娘にそれを託したのだった。6歳児でもできる朝顔の育成に興味を示すと思えなかったが、何を言わずとも毎日水をやる姿に感心した。

 

晦日。担当の編集者の付き合いを断れず、3軒はしごした。妻の死以来、原稿が一本も切れない。娘が留守番できる年齢になったと思い、家を抜けては飲む酒が増えた。実際彼女はひとりで大丈夫だ、と言い張ったし、ここでひとり倒れた妻の姿を思い描くのが怖かった。実家に引き取らせようとしたが、娘ははっきり「いやだ」と断った。私にとっては、母も妻も娘も同じく、幽霊のようなものに思われた。

 

タクシーを降り、酔いに任せ鍵を回した。匙を曲げるかの如く、静粛に鍵が折れてしまった。舌打ちをし、窓から入るかと、庭に廻った。すると、縁側で娘が静かに泣いていた。

「どうしたんだ」

しくじった、と私は思った。酔いは刹那に冷めた。

朝顔が、咲かない」

頬を伝う涙が月光をひと匙掬い、星屑をばら撒いた。

「え?」

あっけにとられた。

「明日、学校で自慢するつもりだった」

彼女の言葉の意味を、私は量りかねた。首元を噛みつかれたような気分だった。娘に、母に、そして妻に。とても痛かったが、その正体がわかった時、私は初めて、娘を抱きしめることができた。

「時期が遅かったからな」

私は諭した。4月から6月に種子を植えるのが基本だ。この夏は、天気も悪かった。

「まだ残りがあるだろう?来年一緒に、育てよう」

小さな身体を抱く私の体躯も、決して逞しくはなかった。

「煙草臭いよ」

娘はもう泣いていなかった。

 

9月1日。靄の立ち込める朝ぼらけ、寝つけなかった私は、煙草を咥え庭に出た。夏が晦日で店仕舞をしたかのように涼しく、ひと雨来そうだった。その空は、白とも黒とも青とも、私には判別つかなかった。縁側に腰掛け、火を点ける。目前の鉢植えに、薄唐紅の小さな朝顔が一輪、控え目にほころんでいるのを私は見た。