渋谷


渋谷

 

糸井重里は死んだ だがこの街は生き残った

屋根裏から鼠が2匹逃げた やつらは「道」になってしまった

野獣のうえにビルを建てて 圧倒 圧倒

新聞記者の勘は正しかったんだ

 

共感は罪だよ わかりますって次言ったら100円な

僕らは遊んでるようで 実は磨き合ってるんだ 

ひとつ坂をのぼり ため息をついて

冬が好きだと 言った貴方が どうして夏の 終わりを悼むの

うして この街は小さく妊娠した

 

僕は黄色い顔したダスティン・ホフマン 新しい虫だ

だからほんとうは僕だって

墓地に停まるピンクのキャディラックのなかで

君とパイナップルサンドを食べたかったのだけれど

 

東急を殺してほしい 恥骨を隠して欲しい

ビートルズ世代

昨年末、ビートルズの音源がストリーミング音楽配信サービス上で視聴可能になった。2010年にiTunes storeダウンロード販売が可能になった時は大きく話題になったが、今回はサプライズに近い形でとつぜん公開された。Twitterの声を少し掬ってみる。「課金しがいがある」「新発売の「1」が聴けるのがうれしい」など。おおむね高評価であることがわかる。私もこのpostを書きながら、apple musicが組んだプレイリストを再生している。面白い。友達が吹き込んだテープを再生しているような、サウダーヂ的感傷がある。

 

1993年生まれの私(たち)はビートルズ第何世代なんだろうか。たまに考えることがある。そしてこれは翻って、間違いなく何番目かの「世代」に属しているという自負を含んでいる。オジサンにも同期にも納得しても得ないかもしれない…ちょっと自信なくなってきた。

 

大いなるうぬぼれの最大の根拠は、2009年にリマスター・ボックスが発売されたことにある。当時私は高校1年生だった。友人たちからロックンロールのイニシエーションを受けた直後、「ロッキング・オン」や「ローリング・ストーン」紙を読み漁り、小遣いを握りしめてブック・オフに通う日頃だった(まさかこんな紋切り表現を使う日が来るとは…!)。

 

そんななか、リマスター・ボックスが発売された。早速家庭で購入している友人がいる。私はたいそう焦った。「音楽好きって言っておいてビートルズ持ってませんなんて、そんな馬鹿な話はないぞ」、私はボックスの発売によって潤沢にあった旧盤の中古を集めたり、友人に借りたりしながら、ようやくビートルズのオリジナル・アルバムを揃えた。

 

ボックスの発売はテレビでもたくさん報道されていたし、タワレコにも大きく展示されていて、充分にムーブメントとして成立していた。それが、音楽に多感な時期が重なった。そして2010年代前後は毛皮のマリーズ黒猫チェルシー、Okamoto’sなど、60年代のロックからの影響を公言する日本の若いバンドが多くシーンに登場した。だからこそ、はじめてビートルズに出会った60年代の日本の若者と同じように、「世代」と言って差し支えないのではないか、と思うのだ。

 

我が家ではビートルズが流れていなかった。ここまでの話には、このような大前提がある。家でビートルズが常にかかっていた人たちにとって、きっとビートルズは大したことないのだ。有名な曲は口ずさめるし、それでいいじゃん。マジでその通りだと思う。「上司にビートルズを聴いていないことをバカにされたもんだ」、父が強烈なビートルズ・コンプレクスを漏らすのを、私は何度か目撃している。「君らの世代はビートルズなんか知らないだろう?」オジサンと話して、そう言われたこともある。「マァ、そうですねェ」とかなんとか切り返すしかない。

 

「君らは世代じゃないだろう?」一生使わないと固く誓った言葉だ。

 

「そもそもビートルズ世代って誰のことを指すんだ?」自分の話はちょっと置いといて、面白い記事を引用する。

日本にビートルズ世代はいなかったのか? 読売新聞

http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20151214-OYT8T50080.html

 

「だから、みんながビートルズやエレキに浮かれていたなんてことはなく、多分そういうものはメディアが作り出した共同幻想みたいなものだ。あるいは自分でそう思い込んでいるだけのことかもしれない。」

 

団塊の世代」、62-66年あたりに10代だった人たちを日本の「ビートルズ第一世代」とする場合が多い。でもよくよく考えると、誰もがビートルズ一色ではなかった。規模は違うけれど、この話はすごく共感する。確かに「世代」と見栄を切っても、クラスはおろか音楽好きの友人とすら、ビートルズの話に熱中した記憶はない。

 

「世代」とは、すごくパーソナルなムーブメントの集合体という場合もありえるのかもしれない。そもそも私はビートルズ・マニアではない。一方で、特に「A Hard Day’s Night」「Rubber Soul」は受験期の思い出の2枚だし、ビートルズを聴いてみんなで盛り上がりたい、という気持ちはなんとなくまだある。

 

ところで今の中高生は、ストリーミング音楽配信サービスを使うのだろうか。クレジット決済という大きな壁があるから難しいのかもしれないが、月の小遣いを3分の1くらいガマンすれば毎日世界のマスターピースに触れ続ける事ができる。そのような環境は、素直にとてもうらやましい。話を統合すると、今回のストリーミング配信によって新たな「ビートルズ世代」が誕生するんだろうな、と期待しているということです。

表と裏

 

「私の作品の表面だけを、見てくれ」。アンディー・ウォーホルは、作品から自己を排除することを望んだ。作品で取り上げるのは「有名なもの」、まさしく「表面だけ」を見られてきたものたち、それらに向けてきた同じ眼差しを、彼は要求したのだ。
 

数々のスキャンダルを忘れれば、マリリンは無二のセックス・シンボルである。また、キャンベル缶に込み入った男女関係なども封入されていない。逆に、天蓋独身なウォーホルのスター生活を暴きたいと思った人も多かったはずだ。

 

人間の裏面とは、月の裏面に等しい。ひねもす我々に背を向けつつも、例え見たところで、勝る喜びがあるとは思えない。世界一「有名なもの」月の裏面は、水もほぼなく、痘痕のような岩石クレーターが広がっているらしい。

 

それならばやはり、満ち欠けの中でスポットに照らされる「有名なもの」に、あこがれ続けていきたい。僕らは本来、ずっとそうやって生きてきたのだ。スーパームーン、夜闇をスプーンでひと匙くりぬいてしまったような月光の力強さに、心奪われながら思う。

ジャーナリズムとアカデミズム

    大澤聡「批評メディア論」を読んでいる。この中に、大宅壮一の言葉が引かれている。
「アカデミズムはひどく嫌はれているヂャーナリズムにとって、非常に大切なお得意になるわけだ。そのコツをうまく掴んで成功したのが岩波である。」
1930年代の日本の言論環境を示唆する言葉だ。当時のエリートたちは、アカデミズムに底打ちと倦怠を覚え、ジャーナリズムに身を置く人間が増えたのだという。そしてジャーナリズムは「官学アカデミズム」をダシにして、市民の注目を集める商売をするようになった。
   この話に興味を持ったのは、今のアカデミズム/ジャーナリズムに、似たような構造が存在しているような気がしてならないからだ。近年、宮台真司東浩紀、若手では五十嵐泰正や開沼博といった社会学者が、多くメディアに露出する機会を持っている。イベントやラジオ、ツイッターでコメントを残し、様々な形で反響を呼んでいる。
    先の話になぞらえると、彼らがメディアで行っていることは、「アカデミズム」ではなく、「ジャーナリズム」として商売をしているように思える。善悪の問題ではない。彼らにとって、公然と社会を語ることができるというのは、自らの本業と、社会の中で考え、発言し商売をする自己とが、可分されうるものなのだという明確な認識があるのではないか。この部分は後日追究したい。
   「ジャーナリズムをアカデミズムの視座から捉える」ことを3年間学び、記者からも教授からも様々な指摘を頂き、納得できる部分が多い一方で、まだ理解していないことも多い、そう痛感する時期にある。その中で身につけることができたもの、それは、ジャーナリズムとアカデミズムが、どのように結節し、どこで袂を分かつのか、その感覚を磨くことができた点にある。上に孫引きした文章も、その感覚の新たな礎の一つである。今後自分と同じような問いにぶつかる学生は、1人は居るだろう、まずは歴史を紐解いてみることから始めるべきだ。

家族とリアリティー

とある会合。参加者全員が各々、短い話をする次第となった。私は、母の話をした。帰宅すると母の取り留めのない話に付き合わされ、苦労しているというよもやまだった。
スピーチの後、とある人が私にこう言った。
「まあ、君がマザコンってことはよくわかったよ」
ザコン。男にとって代替し難い侮蔑のレッテルである。酒の席であったし、私は「イヤ、ばれちゃいましたね」と応じたが、内心は穏やかでない。正直なところ、「親離れ・子離れ」が進んでいない家庭に私は身を置いている。
だがこのようなジレンマは、私だけではなく、アドレセンスを過ぎた若輩に一定の理解が得られるものと信じている。そして、家族との対話を失うことが、「最後のリアリティ」の喪失ではないか、と、私は考えてしまうときがあるのだ。
横浜の港北ニュータウンは、ちょうど私の両親が成人した頃に造成され、幼少期は私も多くの時間を過ごした。同世代の世帯構成を持つ家族は、こぞってニュータウンに住んでいたイメージがある。
しかし、このニュータウンも、ドーナツ化や玉川・武蔵小杉再開発などの影響を受け、全時代の遺物となってしまった。大きなマンションが建つはずだったであろう地に整備された、やけに広い公園が虚しい。
そのニュータウンに、新たな開発の機運が高まっているという。巨大集合住宅を、介護施設にリノベーションし、再興を目論むというのである。ターゲットは、そのニュータウンに希望を持ち、住宅を購入した、その彼らである。
親元を離れ、核家族となることを選ぶ。子供に迷惑をかけない、死に方を選ぶ。同じ地で。
彼らは、バブル–ポストバブル、時代の流れに沿って生きていくことを強く要求された世代だ。その中で、家族を寸断することによって、自分の経営する「家族」をせめて持ちたい、そう望んだのではないか。
そしてここに、我々の世代と「リアリティ的なもの」が大きく異なる点ではないかと私は考える。ソーシャル世代とリアリティに関して、聡明な人なら一つ思うところあるだろう。ここで、親世代にとっての「家族」という補助線を当ててみる。
だから、私は家族こそが「最後のリアリティ」であると考えている。人との寸断が「ソーシャル」を作り、リアリティが失われていく。しかし私たちは、人間的なものから脱却できず、ママの愚痴を右から左に聞き流すのだ。
家族との交流は、草の根の平和維持活動である。長年家を空け世界の平和に貢献する活動家は、私にとっては信用ならない。「アメリカン・スナイパー」のクリス・カイルも、どうだっただろうか。
フェイスブックにシェアされる、家族写真。実際のところ、私には実家のリビングにすら、それを持ち合わせていないのだが。
家族と、生きる。それはもはや、日常ではないのかもしれない。

 

「青い青い、空は白く 白い白い、空は黒く 黒い黒い、空は青い」。娘の絵日記を盗み見てしまった。夏休みの宿題らしい。海の日に帰省したとき、近くの海岸に連れて行った。妻が逝ってから、初めての里帰りだった。天気は芳しくなく、海水浴はおろか浜遊びも怪しかった。しくじった、と私は思った。だが、娘は、砂と水平線と空のモノクロを、海峡の灯火に惹かれ、吸い込まれるかのように、見つめていた。その日の1ページだった。

彼女の眼差しは、無邪気な八重歯のように巧妙に隠され、かつ鋭く研かれているのだ。娘のことを、いつまでも子供と思っては居られなかった。

 

 娘と、植木鉢に朝顔の種を植えた。その種は、もとは、私が子供のころ、実家の庭に植え、育てていたものだった。母は律儀に収穫し、来年植えるものとフィルムケースに取っておいていた。成長とともに私は朝顔に興味を失い、ある夏からそれは植えられなくなった。朝顔の種子は、密閉しておけば、20年以上保管が効く。そんな薀蓄と共に、お父さんが小さい頃、育ててたんだよ、と娘にそれを託したのだった。6歳児でもできる朝顔の育成に興味を示すと思えなかったが、何を言わずとも毎日水をやる姿に感心した。

 

晦日。担当の編集者の付き合いを断れず、3軒はしごした。妻の死以来、原稿が一本も切れない。娘が留守番できる年齢になったと思い、家を抜けては飲む酒が増えた。実際彼女はひとりで大丈夫だ、と言い張ったし、ここでひとり倒れた妻の姿を思い描くのが怖かった。実家に引き取らせようとしたが、娘ははっきり「いやだ」と断った。私にとっては、母も妻も娘も同じく、幽霊のようなものに思われた。

 

タクシーを降り、酔いに任せ鍵を回した。匙を曲げるかの如く、静粛に鍵が折れてしまった。舌打ちをし、窓から入るかと、庭に廻った。すると、縁側で娘が静かに泣いていた。

「どうしたんだ」

しくじった、と私は思った。酔いは刹那に冷めた。

朝顔が、咲かない」

頬を伝う涙が月光をひと匙掬い、星屑をばら撒いた。

「え?」

あっけにとられた。

「明日、学校で自慢するつもりだった」

彼女の言葉の意味を、私は量りかねた。首元を噛みつかれたような気分だった。娘に、母に、そして妻に。とても痛かったが、その正体がわかった時、私は初めて、娘を抱きしめることができた。

「時期が遅かったからな」

私は諭した。4月から6月に種子を植えるのが基本だ。この夏は、天気も悪かった。

「まだ残りがあるだろう?来年一緒に、育てよう」

小さな身体を抱く私の体躯も、決して逞しくはなかった。

「煙草臭いよ」

娘はもう泣いていなかった。

 

9月1日。靄の立ち込める朝ぼらけ、寝つけなかった私は、煙草を咥え庭に出た。夏が晦日で店仕舞をしたかのように涼しく、ひと雨来そうだった。その空は、白とも黒とも青とも、私には判別つかなかった。縁側に腰掛け、火を点ける。目前の鉢植えに、薄唐紅の小さな朝顔が一輪、控え目にほころんでいるのを私は見た。

97回目を迎えた2015年夏の甲子園は、神奈川県代表・東海大相模の優勝を以って幕を閉じた。怪腕・佐藤世那擁する宮城県代表・仙台育英は、通算8回目の決勝へ駒を進めるも、悲願の初優勝にはあと一歩届かなかった。高校野球100年の節目となった今年も、深紅の大優勝旗白河の関を超えることは赦されなかった。

今夏幾度となく耳にした「白河の関」であるが、福島県白河市にそれはある。東京都中央区から延び、白河を通る4号線は日本でいちばん長い国道で、ひた北上すると、青森県青森市で終着点になる。陸奥湾から津軽海峡を臨むこの地の年間積雪量は、なんと8メートルにも及ぶ。ひと冬にマンション4階くらいまで雪が積もるという、東北、そして津軽の厳しさを想像する。全国制覇を目論む球児たちにはむろん、其処で永く暮らしてきた人々にとっても、その儚い四季は何よりの難敵であるはずだ。

 

 

 

津軽の13歳は悲しい」。津軽の冷たく厳しい冬に思いを馳せるたび、私の脳裏にひとりの少年が影を現わす。小説「木橋」に登場する「N少年」のことだ。弘前の長屋に暮らし、新聞配達の仕事をするN少年は、兄らのリンチに耐え兼ね、家出を繰り返す。そのたび母は彼を厳しく叱り、やがて無視される。とある秋、街に架かる木橋が洪水に曝される。それを、いつか見たはずの北海の流氷に重ね、自らのぼんやりとした記憶を顧みる。そんな情景で締めくくられる。

作者は永山則夫、1968年、連続ピストル殺人事件の罪に問われ、死刑囚となった男だ。網走に生まれ、津軽に育ち、家出を繰り返し、進学を機に上京した。高校を除籍となり、職を転々とするなか、横須賀基地から盗んだピストルで4人の命を奪った。社会に、そして家族につまはじきにされた津軽の少年は、社会で最も受け入れられない結果を手に入れた。

仙台育英の18歳たちは一歩及ばず、悔し涙を流した。ナインの力闘に、世間からの賛辞を集めた。一方、50年前の、津軽のある13歳の悲しみは、誰にも受け止められなかった。彼が社会に生きる権利はどこにもなかった。件の言葉は、永山が獄中で読み書きを覚え、綴った詩の一片だという。彼が唯一、社会に残した感情だった。

 

 

 

「空を見上げました。沖縄の空にも、もちろん繋がっています」。2006年夏の甲子園3回戦、八重山商工智弁和歌山戦に、こんな粋な実況があった。西宮の空が遠く離れた石垣に繋がっているのならば、「N少年」が眺めた津軽の空にも、繋がっていたはずなのだが。